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Sex Workerが観るSex Work映画〜その7「サマリア」「リービングラスベガス」 |
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セックスワーカーはどこにでもいる。
多くの人が「身近にセックスワーカーが居ない」と感じるのは、ただあたしたちセックスワーカーが自分の職業を秘密にして暮らしているからだ。
セックスワーカーが仕事を明かさないで暮らす理由は、自分を守るためだけだろうか?
もしあたしたちが身近な人に職業を明かしたらどうなるのだろうか?
職業を明かした上後の付き合いはどういうものが理想なのだろうか?
セックスワーカーはセックスワークをしない人と友情を築けるか?
セックスワーカーは仕事を明かした上で恋人を作れるか?
セックスワーカーが家族に仕事を明かしたら何が起こるのか?
それを考えてみるために2本の映画を観た。
「サマリア」に登場するセックスワーカーは個人売春をしている女子高校生チェヨンだ。
この映画の公開当時の2004年には援助交際と言われていた売り方だ(今これをどういう呼び方で呼んでいるのかあたしは知らない)。
チェヨンにはヨジンという同じ学校の女友達がいる。
ヨジンはチェヨンが安全に売春できるように、見張り役をしてやり、金や顧客管理もしている。
ヨジンはチェヨンの売春をそういう形で手伝っているけど、チェヨンがなぜ売春をするのか分からなくて、いつも何度もヨジンを問いつめる。
売春の後一緒に銭湯に行って体を身体を洗ってやりながら、微笑んでいるだけのヨジンに何度も「なぜあんな薄汚い男と?」「なぜあんなことができるの?」と聞く。時には心配や独占欲がコントロールできずに泣きながら。
チェヨンが警察の摘発から逃れるためにラブホテルの窓から飛び降りて死んだ後、ヨジンはチェヨンの顧客たちに連絡を取って会い始める。
チェヨンと同じように男たちに会ってセックスをし、チェヨンが稼いだ金を一人一人に返すためだ。チェヨンへの罪滅ぼしのためにしなければならないことと思い込んでいる様子で、続けることでヨジンの表情はいつも微笑んでいたチェヨンに似てくる。
ヨジンはセックスをすることで稼いでいないのでセックスワーカーとは言えないが、偶然ホテル街でヨジンを見かけたヨジンの父親はヨジンが売春をしているのだと思い込み、そのことから彼の生活は変わる。
父親はヨジンがチェヨンにしたように本人になぜ売春するのかを問いつめはしない。
ヨジンには何も言わないままヨジンが会った男たちを付け回し、自分の立場は明かさないまま、暴力をふるい、なじり、家族の前で薄汚いことをしたとののしり自殺させる。
客たちを怯えさせても謝らせても自殺させても父親の苦しみは解消されず、表情は暗くなり、時に独りで泣き、生活はすさんで行き、自傷行為をし、感情コントロールが難しくなり友人関係も壊してしまうようになる。
父親はヨジンの最後に会った男を殺した後、ヨジンと旅に出る。
父親の無理心中の計画を連想せずにはいられない描かれ方だが、無理心中することなく、娘と問題を語り合うこともしないまま、父親は娘を置いて旅先で自首して映画は終わる。
もしも世の中に「売春婦は汚れた存在だ」という偏見がなかったらこの物語はどうだっただろうか。
チェヨンは死なずに済んだだろう。警察の取り締まりが無かっただろうってだけではなく、偏った娼婦イメージが無かったら彼女はそもそも売春を始めなかっただろうと思える。
ヨジンはチェヨンを質問責めで苦しめることもなかっただろう。死んでしまったチェヨンに詫びるために自分も売春行為をして罪滅ぼししようなんて思わなくても済んだはずだ。
ヨジンの父親も独りで苦しまないで誰かに話せていただろう。
しかし、そんな「もしも」は無い。
あたしたちはもしもの世界ではなく現実の世界で生きなければならない。
現実の世界で人は一人では生きられないから、生きるためには友達や家族が必要だ。
どんなに強い人だって一人では生きられない。
セックスワーカーにだって友達や家族が必要なのだ。
サマリアを観ていると、セックスワーカーは友達や家族を持つのはやっぱり無理なのかな?と思ってしまう。
風俗で働く人を家族や友人に持つのはしんどいことだから、巻き込まないでいられるなら巻き込まないであげたい。
巻き込まない=仕事のことは秘密にするということだ。
知らなければ、家族や友人は風俗とは無縁で居られる。
この世界になぜ風俗の仕事があるのか?それは必要なものなのか?必要悪と呼ぶべきものなのか?なぜ人は性を売り買いできるのか?性をお金でやりとりするのは不潔なことなのか?そんな疑問から遠く離れていられる。
この社会でのセックスワーカーへの偏見はセックスワーカーであるあたしが一番分かっている。
家族や友人がセックスワーカーだと知るだけでも取り乱してしまうだろうということも分かるのだ。
家族や友人との穏やかな生活を守るためには、自分の仕事のことは秘密にする、それしか無いのかもしれない。
本当は秘密は持ちたくない。
仕事を分かった上で「いってらっしゃい」「お帰りなさい」と言われたいし、職種が違う友達と仕事の愚痴を語り合いたい。
危険な仕事だから心配されるのはしょうがないと思うけど、あたしが仕事としてセックスワークを選んだことはそのまま受け入れてほしい。
自己決定の尊重、ということだ。
「サマリア」を観た上で「リービング・ラスベガス」を観ると、自己決定の尊重の難しさをさらに考えさせられる。
「リービングラスベガス」は売春婦と無職のアルコール依存症男が出会って恋をする話だ。
2人はお互いの「問題」に口出ししないということを約束して交際を始める。
「売春をやめろと言わない」「お酒をやめろと言わない」という約束だ。
2人の恋には問題がたくさん起こり苦しむことが多いが、何もかもを知った上での恋は都合の悪いことは隠したままの恋より尊いものに見える。
ここに行き着けるなら苦しいことも耐えられるような気がする、そんな恋だ。
「アルコールでダメになっていく人にアルコールを飲まないでと言わないということ」と、「セックスワーカーに仕事をやめろと言わないということ」は全然違うことだとあたしは思うが、それはあたしがセックスワーカーであるから思うことなのかな。
そこはまだ突き詰めないでおきたい。
突き詰めないまま、今は自己決定の尊重の難しさについてだけ考えるためだけにこの映画を観たい。
「サマリア」と「リービング・ラスベガス」を両方観ることが、セックスワークをする人とセックスワークをしない人が自己決定とは何かを考えるためにとても役に立つとあたしは思う。
大切な人に「一緒にこの映画を観て」って言いだしてみようか?
自分がセックスワーカーであることを伏せたままで?
それとも話した上で?
どっちがいいのかいつまでも考えてしまって、結局また一人で観ることになるのかもしれないけど、その「結局」を繰り返している内に傷つく準備ができると思うから、自分の仕事は伏せたままで何かのついでみたいに「あたしの好きな映画を一緒に観る?」って言える日がいつか来るように思う。
*サマリアはそれほどでもないけど、リービング・ラスベガスにはヒモからのDVや、客に呼ばれて行った先で複数の客にレイプされるシーンがあります。しんどくなりすぎないように気をつけて観てください。
「サマリア」http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4733
「リービング・ラスベガス」 http://movie.walkerplus.com/mv10540/