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セックスワークを引退するということ
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ
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いつも午後四時頃に一番空腹を感じます。それは風俗で働いていた頃の勤務時間が夜の六時から十一時だったので、毎日昼頃に起きて家事をやって、午後四時頃にしっかり腹ごしらえをしてから電車に乗るという生活が長かったし、それが自分のリズムとして今でも体に残っているのです。

私は三十二歳から四十五歳までの十三年間性風俗業界でセックスワーカーとして働き、引退してから七年が経ちました。セックスワーカーとしての私の経験は、自分で断片的に回想するだけでも非常に興味深いので、いつか文章にまとめたいと思いつつ今に至ります。そろそろ書けそうな気もします。

今回は、私がセックスワークを引退した頃とそれ以後について書いてみたいと思います。


「仕事は楽しかった」

十三年間に経験した職種は、街娼・ピンクサロン・貸座敷・個人売春などで、その中でも貸座敷での仕事が一番長く、同じ店で八年ぐらい働きました。ある日、私達の世話をしてくれる「客引き」のお姐さんに「Mちゃん(私の源氏名)は、一生馴染み(なじみ)さんで食べていけるタイプやな」と言われました。「馴染みさん」というのは私を贔屓にするお客のことで、そういう人が数人居れば歳をとってもまあなんとか生活していくことが出来る場合があります。昔だと、そのまま「二人目の妻」のような立場になっていくケースもあったでしょう。今もあるかもしれません。そのお姐さんの言葉は私を永く働かせるための方便であったでしょうが、それを差し引いても私は「そうかもしれんな」と思いました。仕事が本当に性分に合っていたのだと思います。

それでも私が仕事をやめる決心をした理由は主に2つあって、1つ目は「仕事の実際と世間の評価とのギャップ」、2つ目は「年金等の保障制度が無いこと」です。世間の評価に反して、この仕事に対する私自身の評価は非常に高いものです。お客のニーズやQOLへの貢献度は高いし、求められるスキルも高度です。今、わざとカタカナや英語を使いました。それは、そうすることでイメージ更新の工夫を続けなければならないほど、この仕事への偏見は大きく、評価が低いからです(性労働を私が英語でセックスワークと言い換えるのは、これとはまた別の理由です)。

この理不尽な偏見が、暴力や感染症等のリスク、そしてセックスワーカーに対する世間の侮辱的な態度の原因だと思います。その偏見と評価に変化を与えるべく、現場で働くのと平行して様々な活動にも携わりました。1995年に友人達と共にセックスワーカーのネットワークグループを立ち上げてから十八年。当時に比べると随分といろんな事が変わりましたが、でも今も例えば風俗での職歴を履歴書に書くのは就職には不利な場合が多いでしょう。しかしこの評価は普遍的なものでは無いと私は思っています。飛躍するかもしれませんが、時代や地域が変われば売春婦が神聖だったり教師やカウンセラーと同種の職業能力だと見なされることもあります。しかし、私が生きている間にそれが大きく変化する保障はありません。私は長い間、そういった世間の偏見や評価と力づくで闘ってきたので、ちょっと力を抜いて他の方法で闘ってみたいという気持ちもありました。それで、自分の最大寿命から逆算して、生きている間にすべき事を考え始めました。


「他の労働も大変だった」

現在の日本のセックスワーカーには、年金や保険など、老後や事故・病気・障がいにかんする制度がありません。私は自分の貯金も使い果たしてしまっていました(何に使ったかはまた別の機会に書きます)。それで引退した直後から、セックスワークではない仕事を手当たり次第にやりました。パン工場・チョコレート工場・学習塾の講師・美術系大学の非常勤講師等です。また、映像やパフォーマンスなどの作品を作ることは、今も続けています。しかしどれも経済的には不安定な仕事です。

派遣でチョコレート工場に通っていた冬のある日のことを思い出します。労働時間は朝八時から十七時すぎだったと思います。製造ラインの仕事で、トイレの時間も自由にならない環境でした。夕方、ぐったりとして工場前でバスを待っていた時、携帯が鳴りました。表示されたのは私が貸座敷を離れてからも個人で契約していた「馴染みさん」の名前でした。最後にちゃんと挨拶をして別れてから数週間が経っていました。その間に何度も電話がありましたが、私の決意は固かったので無視し続けました。でも、着信拒否や電話番号の削除ということはしていませんでした。

私は、今この電話に出たら工場での四日分の賃金が2時間程で稼げるという計算をしました。しかも暖かいラブホテルで、お風呂にも入って、馴染みさんなのでややこしいストレスも全く無しで。店に居た頃をあわせると八年以上の付き合いになる人でした。私がかつて結婚していた期間よりも長い付き合いです。私はじっと考えました。街路樹の影が工場の壁にゆらいでいます。私は「この光景を数年後にきっと思い出すんだ。」と自分に言い聴かせながら電話のコールが終わるのを待ちました。


「引退セックスワーカーに向く仕事」

セックスワークをしていた間、セイファーセックスの啓発と普及についても取り組んでいたおかげで、退職して数年後にMASH大阪という団体が運営する、HIV/エイズとその他の性感染症の予防とケアの情報等を提供するコミュニティスペース(公民館のような所)で働くことになりました。この仕事をする中で、セクシュアルマイノリティやその身近な人達への相談と支援、薬物依存症からの回復支援、滞日外国人への健康サービスの提供、若者の性的健康の支援などの活動と繋がることが出来ました。それらの活動に携わる人達は、セックスワークの現場についての情報を必要としていました。また、医療や保健福祉行政の人達に対してセックスワークについての講演をすることも多くありました。

それらの仕事はとてもやりがいのあるものでしたが、親の介護が始まったので、私は仕事を減らして実家に引っ越しました。実家のある地域で仕事を探したところ、「地域生活定着支援センター」の相談員になることが出来ました。これは、高齢者や障がいのある受刑者が満期出所後に帰る家の無い場合に、受け入れ施設とのコーディネートや一人暮らしの支援をする、司法と福祉の橋渡しのような仕事です。この仕事の面接の時に自分の経歴をすべて話したところ、風俗業やセクシュアルマイノリティ支援の現場を知っているという点が評価されて採用されました。HIV/エイズコミュニティの仕事以外で、そんなことは初めてでした。

そもそもセックスワーカーは「対人支援」のプロです。限られた時間内に人の話を受け入れて共感を示すということが出来ます。これは、どんな仕事でも非常に重要な能力であるということが、セックスワークを引退してからじわじわと実感されてきました。まだまだ、私達自身が気付いていない能力があるような気がします。引退セックスワーカーの職業能力が正当に評価される日は、意外と近いかもしれません。




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ブブ・ド・ラ・マドレーヌ  BuBu de la Madeleine

1992年、友人にHIV感染をカミングアウトされたことがきっかけでHIV/エイズの予防啓発と陽性者支援の活動を始める。同時期に経済的事情から風俗での仕事を始める。それまでは結婚していた。アーティスト、ドラァグクイーンでもある。

Twitter: www.twitter.com/bubu_de_la_ma


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職種
売り専です…お客さんも売る側のスタッフも男性の風俗です
自己紹介
大女優とも呼ばれています。気づいたらもうすぐ40歳。なんとか現役にしがみついています。
好きなものは、コーラ!!
皆さまの中には聞いたことがない仕事かもしれません。いろいろ聞いてくださると嬉しいです!!
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デリヘル嬢。
ここでは経験を元にしたフィクションを書いています。
すきな遊びは接客中にお客さんの目を盗んで白目になること。
苦手な仕事は自動回転ドアのホテル(なんか緊張するから)。
goodnight, sweetie http://goodnightsweetie.net/
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元風俗嬢 シングルマザー
風俗の仕事はだいたい10年ぐらいやりました。今は会社員です。
セックスワーカーとセクシュアルマイノリティー女性が
ちらっとでも登場する映画は観るようにしています。
オススメ映画があったらぜひ教えてください。
あたしはレズビアンだと思われてもいいのよ http://d.hatena.ne.jp/maki-ryu/
セックスワーカー自助グループ「SWEETLY」twitter https://twitter.com/SweetlyCafe
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庄司優美花
非本番系風俗中心に、都内で兼業風俗嬢を続けてます。仕事用のお上品な服装とヘアメイクに身を包みながら、こっそりとヘビメタやパンクを聴いてます。気性は荒いです。箱時代、お客とケンカして泣かせたことがあります。