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セックスワーカーについて“論じる”ことの問題 早坂あかね |
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店舗型ヘルスでセックスワーカーデビューして1年半。
いろいろあったけど、この1年半で特に印象深い出来事とそれについて思うことなど綴っていこうと思う。
ちょっと長くなるけど、よければ最後までおつきあいください。
わたしがセックスワーカーとして働きはじめる前に懸念していた“リスク”は
・店とのトラブル(罰金、強制出勤、脅し…)
・客とのトラブル(性暴力、ストーカー、盗撮…)
・性感染症リスク
などで、これらは一般的によく言われるものだし、それが当時の働く直前のわたし自身、一番の懸念だった。
結果として今のところ大きな問題はなく安全に働けているのだけど、ワーカー個人を保護する制度がなにもない中で、わたしがこれまで大きなトラブルや性感染症を経験せずやってこれたのは、ガールズヘルスラボやSWASHなどのサイトに知識をまとめてくれた先人たちのおかげであることは間違いない。
ところで、実のところわたしを今一番悩ませているのは、“性暴力や性感染症のリスク”以外のこと、“セックスワーカーであることそのもの”に対するスティグマや偏見や憎悪、それらの精神攻撃に疲弊してしまっていることが大きな問題だ。
業務中の物理的なリスクはその時間に神経を集中することでそれなりに回避できるのだけれど、精神的な攻撃は思いもかけないときに突然やってきて防御することすらままならない。
わたしは「セックスワークは労働のひとつの選択肢で、サービスを提供して対価を得ているほかの労働者と等しく扱われるもの」と考えている。
(残念ながら、現状はそういう扱いをされていないけれど。)
だから、近しい知人などには仕事のことは隠すことなく語ってきたし、それが間違いだったとも思っていない。
ただ、個人情報のゆるい管理の結果、元交際相手の男性にセックスワーカーであることが知られてしまい、逆上されてしまったのだ。
セックスワーカーになったのは破局後一年以上経ってからなので何を根拠に介入されたのか不明なのだけど、顔も知らないセックスワーカーではなく知人のことになるとワケが違うらしく、その“良心”がゆえに「やめさせなくてはいけない」「人道に反するひどい産業を肯定するやつは許さない」と躍起になり、ついには攻撃に転じてしまった。
働いている店をつきとめられ家族にバラすと脅され、店に営業妨害の電話や客を殺すなどの嫌がらせ行為を継続して行われた結果、安全な就労が阻害され、当時の店を辞めざるを得なくなってしまった。
そのときの粘着攻撃による精神的外傷は甚大で、いまだに心身の不調を抱えてはいるが現在は別の店でぼちぼちと働いてなんとか暮らしている。
そのような攻撃を受けてからよく考えるようになったのが、「セックスワークとそれ以外の労働を連続したものとして語ることを許さない」とか「金銭を媒介とした愛情がないセックスは望ましくないものだ」という主張には矛盾や問題があるということだ。
“良心”がゆえに粘着攻撃に転じた元交際相手の男性の言動は、世に溢れる典型的なセックワーカー差別と偏見に裏打ちされたものがたくさんあった。
様々なリスクから自分を守る術が自衛しかなく、さらに差別と偏見の攻撃にさらされるなどのセックスワークを取り巻く問題が一応は認識されながら未だに解決しないのは、連続した社会のなかで生まれ成立しているセックスワークを“特殊なもの”として切断することによって問題解決をネグレクトしているからだと感じている。
セックスワークの存在そのものが許されないものだと考えるひとは「セックスワークはなんらかの事情に追い込まれた結果やらざるを得ない以上、純粋な本人の自己決定や自由意志とは言えない、そんなものを労働とは呼ぶべきではなく、セックスワークは許されない」という根拠で批判するのだが、純粋な本人の自己決定や自由意志のみで望む職業につけている(もしくは働かなくてすんでいる)ひとがいったいどれだけいるというのだろう。
セックスワーカーになる前に職種も雇用形態も様々なものを経験したけれど、どれも生活のために自分の時間と能力の売買をし、雇用主へ多少なりとも従属化することの対価として賃金を得て暮らしているという点で、セックスワークと非セックスワークは明確に分けられるものではない。
にもかかわらず、セックスワークに限ってはそこに本人の意思があったのか?それは自己決定権の範囲なのか?が殊更に問題視され、「強制性がゼロでない以上は性奴隷と言っても過言ではない」と言うひとさえいる。
自発的であるか自由意志であるかということは、労働現場における暴力やリスクの責任を回避できるマジックワードではないし、それは非セックスワークにおいては常識であるからこそ労働者として法的な保護がなされるが、法的に保護されていないことが逆にセックスワークの自己責任論を担保しているのなら法整備を進めるべきだし、奴隷か労働者かなんて議論は当事者にとってなんの意味もないどころかスティグマにしかならない。
また、「金銭を媒介とした愛情がないセックスは問題である」とするならばその問題意識の前提となるロマンティックラブ・イデオロギーにおける婚姻またはそれを前提とした異性愛中心の性愛規範、家父長制、男性中心の社会構造が、どれだけ性差別の温床になっているのかを省みてほしい。
性行為は愛情や金銭や生活保障の代償として常に取引されているし、取引の手段に関わりなくそこに搾取や暴力、差別構造は常に存在する。
金銭の授受があっても合意のセックスは存在するし、愛情を隠れ蓑にした暴力的なセックスが現実にある以上、金銭の授受や愛情の有無で善悪を判断することは現実的ではない。
また、セックスワーカーの大部分がシス女性やセクシュアルマイノリティである現状は、非セックスワークの労働市場が男性中心主義であるゆえに排除された結果ともいえ、セックスワーク市場と非セックスワーク市場はコインの表裏である。
セックスワーク市場の拡大が問題であるとする論を支持するならば非セックスワーク市場を男性以外に開放し機会の均等や賃金格差を是正することが必要であるし、一方的なセックスワークの労働市場の縮小は当事者がより困窮することにしか繋がらない。
セックスワークの成立背景のみを問題視する立場のひとにとっては現実に当事者が望む形で安全に就労できるようになることは重要な要素ではないようだが、当事者の声を無視した“改善”はより当事者を困窮させるということは風営法“改正”の事例など枚挙にいとまがない。
セックスワーカーと非セックスワーカーは切断できない連続した存在であるし、どの労働が善でどの労働が悪とか、あれは労働でこれは奴隷だと議論する間にも、セックスワーカーは現実をサバイブし日々働き暮らしている。
そこに暴力や搾取があると言うのなら、それらのリスクから労働者の権利や人権が守られるようになってから論じても遅くないのではないだろうか。
議論そのものが悪いとは言わないけれど、現状のセックスワークを論じることについては、どうも議論のネタになっているだけで現実が捨て置かれているようにしか、感じられないのだ。