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ベイビー・カモナマイルーム |
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目の前で成人男性がひとり、俯いている。
たぶん中年に少しさしかかった頃、黒い縁のクラシックな眼鏡、背は少し高めだろうか、メタボリックというほどではないけれど顎のラインをなぞれば柔らかそうだ。髪の量は多く、艶とコシがありそうで若干うらやましいがそんなことを考えている場合ではない。
視線は床のあらゆる位置を行ったり来たりして定まらず、数秒に一度ふいに私の顔に向かったかと思えば瞬時に全速力で逸らされる。その短い一瞬に見る限り、決して機嫌がよさそうではない。むしろ憤怒の表情にも近い。
室内はきれいで、家具のほとんどが黒で統一されている。あの本棚はきっと二重になっていて後ろ側にも本が収納されているんだろう。どんな本があるのかちょっとは気になるけれど、そんな余裕はとてもない。
彼の片方の手は自分の膝で頬杖をつき、もう片方は指先がずっと小刻みに揺れている。緊張している……だけならいいけれど、いやよくはないけれど。
私は念のために、この部屋に入るまでの数分間をそっと思い出す。
エレベーターはドアを出て右、それから左。ここは10階だから、もしここで「何か」があって私がタオル一枚(巻ければの話だ)で飛び出したとして、階数表示が1階から上がってくるのを待つとしたら気も狂いそうなほどの永遠を感じるに違いない。そんな「何か」が起こると信じて怯えているわけじゃない、ただの念のため、だ。それにまだ24時半なので人通りがあって助かるかもしれない。
まずは礼儀正しく挨拶をしましょう。軽い世間話をあくまで聞き役として行い、徐々にスキンシップを取り入れ、お客様からのボディタッチが増えてきたらシャワーを浴びるよう誘いましょう。なにも難しく考える必要はありません、当店は清楚な素人OLの店と謳っていますから、男性のリードに身を任せるくらいで丁度よいのです。とにかくお客様のペースに合わせることに徹しましょう。
入店した日に流し読みした冊子には、確かそんなようなことが書いてあったと思う。マニュアルが役に立たないのはどこの世界も同じだな、と思った。違うのは使えないマニュアル以外に指示を仰げる相手がいるかどうかなんだろうけど、ここにそんな人はいるわけもなく、自分ひとりの過去の経験をお粗末な記憶力でかき集めてどうにか応用するしかない。
——寒くなってきましたね。
『軽い世間話』がどこまでできるかわからないが、とりあえず私は話しかけてみた。返事をしてくれる人であって欲しい、と思いながら、できるだけ柔らかく、できるだけ何も考えていないように、慎重に。
——あっさっ寒いですか、そうですか。いや、さ、寒いですか、寒い!?
彼は少しも顔を動かさず床を見たままで、ただ驚いた声で言った。慌てて私が見ると、その表情は硬直して、激しく困惑しているようだ。
——あ、ちがうんです、この部屋が寒いということじゃなくて。あのう、世の中がね。秋が深まってきましたねーって、そういうことを言おうと思ったんです。
——世の中、ああ、世の中が。秋が。そうかそうだ、そうですよ。寒くなってきた、確かに。寒くないのならよかったです、そのう、この部屋が、だから、カナコさんが。
——この部屋の温度は私にはちょうどいいですよ。どうもありがとう。
ありがとう、と私が発したタイミングで、彼の口の端が笑うときのようにゆがんだ。笑ったのかもしれない。
全身がホッと安堵した。私の名を呼ぶ彼の様子に敵意や見下しを感じ取れなかったので、ただ単に『挙動の不審な人』であるだけ、という可能性ががぜん濃厚になり、それは最高の現実だった。なにしろ相手が私と平和な関係を築きたいと思ってくれているのなら、こちらから試せる選択肢が夢のように増えるのだから。私は希望をもって『軽い世間話』を試みた。
決して会話が弾んだわけではなかったけれど、お互いにひとつのことに向かっているという感覚は共有していた、と思う。彼は思ったよりも若い、少年のようなあどけなさがどこかにある声をしていた。
そのぎこちない会話の間にずっと私は(私に触れてもいいですよ)というメッセージを込め続けた。寒くなってきたとか、秋は短くて淋しいだとか、春のほうが好きですかとか、花粉症を持っていますかとか、そんなようなことを話しながら。
そうしていると「あのう」と彼が急に言った。「あのう、申し訳ないんだけど」と。なにかいやだっただろうかと身構える私に彼は続けた。
「どうしたらいいか、割と分からないんだけど、あの、いいのかな、だから、触ったりとか、触るっていうのはその、ものすごい方の意味じゃなくて、ものすごい意味じゃないって言うのは、今はそういう意味じゃなくて、その」
いずれはものすごく触る、ということをちゃんと前提とするところが正直で厳密だなあ、と思った。
「触ってもらうために来たんだよ」半ば苦笑いで私は言い、そして自分から彼の左手を取った。
とてもとても冷たい手だった。
……と思ったけれど、そういうことではないとすぐに気がついた。濡れているのだ。濡れていて冷たいのだ。冷たさと水分の向こうで、筋肉にうっすらと力が入っている。引っ込めたがっている……?そんな気がする。バッ、と振り解かれるだろうか、と一瞬待った。だが彼はそうはしない、そんなことをしたら私が傷つくと、それはいけないと、思っているのかもしれない。
引っ込めたい、と読めた不確かなサインを私は追いかけてさまよう。
あくまでオレが触りたいのであって、私からは触れられたくない? それともただただ、手から汗が出ていることが申し訳ない? 恥ずかしい?
——そうだとして彼が望むのは、私がこの水分を意にも介さないことか、または接触の前に僕は多汗症の気があって……と言葉で話し「気にしないよ大丈夫」と私からも言葉で了承する、というステップを踏むのが理想だったのかもしれない。そうだったとしたらもうその道は採れない。少しでも埋められる別の方法を見つけなくては……それはどんな?
ねえ今はどうなんだろう、まだ引っ込めたいだろうか、なんか増えてるな水。
あと0.5ミリ指に力を入れる。びしょびしょの手から、逃げたそうなムードが消えるのと同時に彼がしゃべった。
「あの手汗が、手汗が本当に手汗で。ごめん」
ううん、と私は話の途中のなんの重みもない相槌のように言う。
「嫌でしょ、嫌だよね、あのオレこれ手汗、ずっと前から」
「モノが滑って困ったりします? 落としちゃったりとか」
顔から視線を外して、指先で手のひらをそっと撫でつつ恋人つなぎのかたちに変形させることを楽しむかのようにしながら、私は言った。
「いや、落としたりは、24時間こうなわけでは、ああ、でも紙が、紙というのはそれは、コピー用紙のような薄い紙のことで、それで、濡れて困ることはあったかも、しれない。でもいつもこうなわけでは」
「そうなんですね。なんで? あたしが綺麗すぎるから?」
おもしろくなくても私のために笑ってね!とちょっとした圧力をかけるために、先にとびきりたっぷり笑って彼の目を見た、のになんと笑ってはもらえなかった。なぜか向こうが照れたように俯いて、う、うん、と小さく言うと、絡ませた指を握りやすい形にして、キュッ、と何かを送ってきた。私よりも強い力で。
「うそですよ、優しいんですね」
頃合いを見てそっと手を放し、もう少し近づく。肩に腕を回して軽く抱きしめると、彼も同じようなことを私にした。ただ手首から先が触れることはなく、主に二の腕からの圧力によって私は抱かれていた。
「おんなじふうに、したいんだけど」
「あ、もしかして、私の服に汗がつくのがいや?」
「ていうか、だってそれは、嫌でしょう、カナコさんが」
「いやじゃないけどありがとう。じゃあさ、シャワー浴びません?服ぬいじゃえばどうってことないでしょ。ね。いや?」
「嫌じゃない、嫌じゃないんだけど、あの、先に、してもいいか、な、あのそのつまり」
「あ……もちろん。いいよ。しよう、して」
そうして頷いてからさらに5秒ほどあって、私たちは変なポーズで最初のキスをした。キスまでが長かったなあ、と思いながら。
彼には分からないようにタイマーを見た。予想外のアクシデントでもなければギリギリ時間内に事を済ませられる、だろう。
ホッとしてそっと目をやると、背中を丸めて几帳面にシャツを畳んでいる。私も自分で服を脱ぐことにした。ここでマニュアルを守ろうとしたら、たぶん大幅に時間がオーバーする。
予想外のアクシデントは起こらなかった。私たちはおおむね規定通りの基本プレイをスムーズにとは言わないまでもなんとか行い、予想通り時間ギリギリで着替え終わった私は「もう行かなきゃ」と慌ただしく玄関へ向かった。
「また来てもらえますか」と彼は言った。
「あなたがまた店に電話をかけてくれて、私の名前を覚えていて、そして指名してくれたら」笑って私は言った。
そりゃあそうだよな、変なことを言ってしまった、という顔を少しして、またこちらを見た彼に私は手を伸ばした。
最後になってようやく躊躇のない抱擁をしながら、彼は耳元でもう一度言った。
「また来てね、あ」
「また来るね」
今度は私もそう言った。
「それから」
抱きしめたままで彼が続けようとし、突然に両方の手のひらをパッと広げて私の背中から外す。しまった忘れてた、という感じで。いいのに、と思ったけれど黙っていた。話の続きの方がきっと大事で、それは遮れば二度と聞けないものだ。どうしてかそれがわかる。
「カナコさんは本当にすごくきれいだと思う、思うじゃなくて、きれい、こんなきれいな女の子見たことないと思った、さっき言おうと思ったけど言えなかった、本当にそう思ってるから、言えなかったんだ。本当だよ。今日はありがとう、すごく感謝してる」
胸に顔を埋めたままで私は面食らった。だから冗談だってば、まるで私が稀代の自惚れ女みたいになるからやめてよ、ていうかどしたの、どうしてそんなにスラスラしゃべれるの。まさかこちらの視線が全く見えない状態にしてあげるとなにか緊張が抑えられるとか?
今ごろ気づいても遅い。
「それ、私以外の女の子の顔をまともに見られたためしがないだけ、ってことじゃないでしょうね」
そう言って笑った。お客様に向かって言うセリフじゃないけれど、つい言って、ふたりで笑った。それからもうどうしていいか分からなくなってキスをした。セックスの最中のそれのように、強くて甘くて熱いのがよかった。
服を着ているときに綺麗だねなんて言われたら、ちょっとはにかみながら謙遜してみせつつその後に変な要求のごり押しが来ないか警戒する、だとか。
服を着ていないときに綺麗だねなんて言われたら、プレイの状況に応じて目をそらしたり恥ずかしさに顔を伏せたりすると場を盛り上げられる、だとか。そんなマニュアルなら私の中にもうちゃんとある。
だけどもうあと3秒で出て行くって時に言うなんて、ねえ。
完全に想定外のキスが最後の最後に発生したせいで今度こそ本当に、確実に時間をオーバーした。だって本当に長い長いキスだったから。私がそうしたんだけど。
もしまたここに来ることがあったら、抱き合ったままで軽い世間話をしてみよう。腕枕でもいいんだろうか。忘れないように後で手帳にメモをしよう。
こうして私のマニュアルは日々分厚くなってはいくものの、何もかもがひとりにしか使えないうえ二度指名されなければまるっきり役に立たない。
でもまあいいや、少なくともこの部屋にはなんとなくまた来られるような気がするし、来られなくても……まあいいや。
私はエレベーターのボタンを押す。デジタルの数字が上がってくる。1から始まり、あっという間に10になってドアが開く。帰ろう。