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眠れる森の夏休み |
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はじめにどんな成り行きで言葉を交わしたんだったか忘れたけれど、ねえあんたどこに住んでるの、と私が訊いたところからは思い出せる。
すっかり地名駅名が返ってくる気でいたから、淡々と牛スジの煮込みを食べながら「男の人の部屋に住んでます」と言われたときはちょっと面食らった。
私よりも四つ五つ若いだろうか。年上女用の接待術に長けた男子のお愛想には上手く対応ができない私だが、この子はわりと平気だな、と思った。こんにゃくをそっと取っては静かに口に入れる流れ、その身体のわりに小さく落ち着いた動作をいつまでだって見ていられそうだ。人の笑う声にもビールが染み込んでいそうな店の中にいて、凛々しいマイペースさを纏っている。
「その男の人ってどんな人?」
箸を持つ手が少し止まったけれど、答えたくない、といった感じではない。
「よく思うのは……とりつくしまもない? って、感じですかね」
またそんな、笑っていいのか分かりにくい答えを。でも替えのきかない言葉だ。
「……苦労してんの」
「いえ、そんなには」
穏やかに口角を上げている。取りつく島もない男と穏やかな男とで、どんな暮らしをしているのだろう。「もう少し質問していい?」と素直なお伺いを立てたら「はい、どうぞ」と言われた。
「なんて呼ばれてんの、その人に」
恋人どうしなの? と訊けばよかったのかもしれないが、なんとなくそう言えなかった。
「下の名前ケイゴなんで、機嫌がいいときはけーごくん、けーたん、悪いときは、ヒモやろう、とかです。酒でやばいと『クソひも寄生虫ぅ〜』とかになってる時もありますね」
「さすがの取りつく島っぷりっつうか、すっごいな。それケイゴくん的にはいいの、アリなの?」
「ヒモはヒモなんで……そこらへんを歩いてる人に、俺の生活をざっと説明するじゃないですか、んでこの人はなんでしょうか? って問題出したら、たぶんみんな「しいて言えばヒモかな」って答えますよ。あのー、寝ますし。そういう意味で」
自虐的だったり『ネタ』にするニュアンスはなく、淡々とそう言われた。
「なんかもーちょっと他にもあるでしょ、同棲中で求職中、とか、事実婚で同性婚の主夫、とか答える人もいるかもしんないっしょ……あと留守を預かってる人、とかさー、わかんないけど」
「お姉さん優しい人ですね、最後のやつおもしろいな。けどそんなんじゃないですよ、求職中でもないですし。一回バイトしようとしたらめっちゃくちゃ怒られました。いつ帰ってきても必ず家にいるのがヒモとして最低限のたしなみで、いないのと寝てるのはありえないって」
なるほど、たしなみ。
「今日はその人帰ってこないんです。たぶん……そろそろ捨てられると思います」
爽やかにそんな情けないこと言うなよな、と思ったが、ヒモの勘とやらでわかるのだそうだ。居らんなくなったらどうするのさ、と訊くと、最初は友達の世話になるかもしれないけど、そのうちどっかに居着くんじゃないですか、と言っていた。ハマッたわけでもないのに最終回まで見たドラマのその後を、適当に予想するみたいな言い方だった。
「そんときは泊まりに来てもいいよ、あたし仕事の日は夜いないけど」
ケイゴくんはありがとうございますと言って軽く頭を下げた。
「なんとなく、お姉さんの家はぐっすり眠れそうです」
お愛想のひとつかもしれなかったが、嬉しかった。
仕事先の部屋で、私は静かに神経を尖らせていた。
本指名だからといって油断できるとは思ってない。でもこの男がこんなことをするとは、正直予想していなかった。家庭にも職場にも不満を抱えた彼がせめて楽しく過ごせるように明るくサービスすることで、多少なりとも役割を果たせている気になっていた自分が腹立たしい。
スマホを取り出し、適当なゲームアプリを立ち上げる。ねえ見て、これ最近やってるんだけど……と嬉しそうに呼びかけ、くだらないけど面白いの、と笑ってみせる。
射精したばかりの男は呑気な顔だ。私は笑ったまま、こっそりとLINEを送る。あて先は店だ。
こういう目に遭うのは初めてではないくせに、やはり多少固くなる自分の指に失望しながらなんとか文字を入力する。送信。
—— すみません盗撮されてます。対応お願いします
スタッフがなんだかんだ処理してくれている間、『面白いゲーム』をぼんやりと眺めていた。
ふと入り口から数センチの場所がヂリッと痛む。いちだんと指入れ酷いけどどういうことよ、と思ってたあの時も撮られていたわけだ。半年ちょっとのあいだがんばって通ってもらって、最後がこれ。不快そのものだったが、心は静まり返っていた。
すると、退屈な画面にぴょこっと通知があらわれた。
ケイゴからだった。あれからよくやりとりしていたが、今夜の用件はすごい。例の彼が泥酔&新たな男連れで帰宅し、こんな時間に部屋を追い出されたらしい。どこもかしこも大変だわ……いや、住むとこなくなる方がぜんぜん大変だ。
—— その男の人にどういったご関係ですかって言われたんですけど
僕は留守を預かる者です。って言ってみたらなぜかそれ以上きかれませんでした
勝手に使ってすみません。サエコさん天才ですね
よく覚えてるなあ。遠慮なくクスッと笑った。
—— 使用料持ってうちに来てもいいよ、たぶん私もそろそろ帰れるから寝ましょう。
これ変な意味じゃなくて睡眠は大事だから。もちろんいやでなければ。
女の部屋に誘うのがいいことなのかよくわからないし、なんだか下心があるかのような文面になった気もするが、若者よごめん、私はいま疲れているので頭が働かないのです。
少し待つと、
—— どんな意味でもありがたいです。お言葉に甘えます
と、奥ゆかしい返事が返ってきた。
早朝の路上に、私の覚えていたのとだいぶ違う雰囲気で、彼はあらわれた。昨晩歓楽街で人々が犯した大小の過ちをひとりですべて背負ったかのような、哀れな薄暗さを放っていた。それが主に無精ヒゲのせいなのは分かっていたが、無精、という言葉は似合わない過酷な変わりようだった。
「むかしっからヒゲ伸びると超汚くなるんですよね、ドブに落ちたヒモっていわれました、さっきも」
頬に両手を当ててかわいい仕草になっている。笑いながら、多少汚いけどそれもそれですきだけど、と私は言った。
そこかしこに立派な夏の気配が満ちていて、少し気負わされてしまうほどだった。
「大変だったでしょ、トリツクシマの人」
「はい、男の人いるんで大丈夫だとは思いますけど……すごい大声でaikoの曲を歌って、じゃないな、絶叫してました。テトラポットのぼって落ちたら危ねえだろうが死ねえええ! ……って言ってました」
「前から思ってたけど、その人、もし会ったら嫌いとは思えない気がするよ」
「ははっ、そうかもしれません」
私の家周りの目印を簡単に紹介し、部屋番号と給湯器の操作を教え、バスタオルを貸し、他愛ない話をちょっとしているうちにふたりとも深く眠り込んだ。私は心身が疲れ果てていたし、たぶんケイゴもそうだった。眠れなかったのは昨夜だけではなかったんだろう。
何日経っても、私はまったく仕事に行く気になれなかった。ケイゴの「友達の世話に」の『友達』に加われたことは単純におもしろかったが、あの子が泊まりに来るのが嬉しくて仕事なんか行きたくない、といった明るい行きたくなさとは違い、単なる労働意欲の枯渇だった。
肉体関係は持っていなかった。「男でないとセックスできないわけではないんです」と説明してくれたことはあったが、それは別に私を誘うだのといった意味合いではないと受け取った。かといって意図的に避けたわけではなく、例のヒゲをいよいよ剃りますというとき、名残を惜しんで感触を味わいながら頬にキスはした。でも、それだけなのだ。最初のお泊まりが睡眠で始まったわれわれなので、なんとなくその流れが続いているのかもしれない。もしくは向こうにとって私はまったくそういう相手ではない、のかもしれない。とにかく考える暇もないほど、ふたりとも横になるとすぐに眠ってしまう。単に身体がバテている、というのが正解な気もする。このところ体重も少し減っている。
いっそしばらくまとめて休んでしまおうか。
まだよく眠っているケイゴを残し、病院へと出かけた。みっちりとSTI検査を受ければ、わたくしこれから長い休暇なんですの、みたいなノリになれるような気がしたのだ。大丈夫、二度と足が向かないなんてことはない。少し疲れが出ちゃっただけ。自由に休めばいいじゃない、誰にも遠慮はないじゃない。どうせ私、この仕事辞めやしないじゃない。
血液などを採りお金を支払い、他の用事もいくつか済ませ、やれやれと家に戻ると誰もいなかった。
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ちょっと出かけてきます。
夕方には戻るので、
食べたいものがあったらLINEしてください。または食べられそうなもの。
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じゃあこれもLINEでよいのでは……と思いそうになったが、これも『ヒモのたしなみ』の一環かもしれない。書き置きっていいものだ。
あれがいいこれがいいと送ってみたいところだけど、残念なことになにも口にしたくなかった。
—— 何もいらないから早く帰ってきて。
文字にしてみたら無駄に切羽詰まって見える。これはないわ、とソファに横になっているうちに、また眠ってしまった。そんなに疲れていただろうか。
目を覚ますと薄暗く、ケイゴはひどく心配そうな顔をしてつつっと寄ってきた。だって眠かったんだもん、と口を尖らせてみたが、彼の視線は私の腕に向いている。あ、剥がしてなかった、正方形のあれ。
「美白プラセンタ注射でっす」
適当に宣言してみたが、信用されてない。
あのねえサエコさん、と、あきれた顔をされた。
「ウソは決して追及しない、というのもたしなみですけど。けどそういうのはやめましょうよ、調子よくないんでしょう。……病気、ですか」
私はふてくされたまま、病気かどうかわかるのは来週ですんでご期待ください、と言い、説明ついでにこのところのパッとしない出来事についてもざっと紹介した。そういえば風俗嬢であることもちゃんとは言ってなかったのだ。
馴染みの客に盗撮されたこと。客は認めたが、「でも撮っただけだし」と言っていたこと。
あとでネットで探したら、似たカメラが派手な『悪用厳禁デス!!』をひっさげ2万円弱で売られていたこと。
処理に当たった若いスタッフが「パンツ一丁で土下座したんで写真撮りましたけど見ますー?」と言ってきたこと。見ればいい気味で気分も晴れるでしょ、という善意の申し出だと、いちおう分かっちゃいること。もしなにか持ってても共に生活するだけでは感染リスクはないが、気分的に嫌ならそれはごめんということ。などなど、いろんなこと。
「サエコさんは、怒らないんですね」
黙って聞いていたケイゴの感想はそれだった。そうかな。そんなことないと思うけど、とぼんやり答える。それに私はあなたが怒ったところも見たことないです。
「でも、怒らないです。どうして」
どうしてって言われても考える気にもなれないのだが、めずらしく返事を待つ表情をしているので無視するのはしのびない。
「だってしょうがないじゃん」
言い慣れた明確な答えがあるわけではないので、なんとなくつっけんどんになる。
「そいつのしたこと許してなんかないよ。けど、実際いつ誰に怒るの? いつ、誰に言ったら、あたしの怒ってることは聞いてもらえて直してもらえて大丈夫になるのかって、そう思うと、謝ってもらおうとかになんないんだよね」
真剣に聞かれているのはありがたいが、きちんと整頓して言葉にする余裕がないので急かされたような気分になってしまう。
「だって、なんかほら、食い逃げ犯が捕まったって料理に向かって謝んないでしょ。食べた皿がてめコラ何しやがんだとか怒り出したら、犯人びっくりでしょ」
納得できない、という表情で一点を見ている。私は戸惑った。
えっ、怒ってる。なんであなたが。
そしてケイゴはきっぱりと言った。
「でも、サエコさんは人間でしょう」
「知ってるわ!んなこと!!!」
思わずぴしゃりと跳ねつけるような声が出てしまった。まっとうなことを言われてなぜこんなに反発するのか、彼の真剣さが私の逆鱗にふれたとしかいいようがなかった。もちろんすぐに後悔して、驚かせて申し訳ないし、傷つけていたらどうしようと思ったし、気分を害したかもしれない、とも思った。
ほら、怒ってもろくなことはないのだ。
「あたしはそりゃあ……人間だよ。でもそれは、ケイゴがあたしを人だと思ってくれてるから、だから人でいられるだけなの。あの人にとってはそうじゃなかった。謝んないの、理屈に合ってるんだよ。確かに皿に盛られた料理を盗み食いしました、でも皿は割ってません! って感じなんだよ。あっちの目に人じゃなくてお皿に見えてるんなら、もう……こっちで変えることはできないんだよ、変えろって言われても無理……無理すぎるよ」
すみません、とケイゴは言った。ひどいことを言ってしまって、と。ひどいことを言われたなんて思ってないのに。
「ひどいことを言わなければ、ひどいことを言ったことにはならないで済むと思ってました」
ごめん、わかんない。ひどいことってなに。
「ひどいことを言ったりやったりする人っているじゃないですか、サエコさんの仕事だと特に、さっきの話の奴とかもだし」
ああ、わかった、あれだ、肉便器とか黙って股開けとかそういう系のひどいこと。いるねえ、確かに。
「そういう変な奴にはなりたくない、と思ってたんです。でも同じようなものです、誰かがひどいことされるのが嫌だからって、その人にどうにかさせようとするのは。俺だってなんとかしろって言われて困ったことあったのに。ごめんなさい」
私はしばらく何も言えなかった。でも、いちばん素性の分からない相手に、いちばん本心に近いようなことを言ったんだなあ。そう思うとちょっと不思議だった。普段隠すとも思わずに隠しているもの、人から見えないようにしてあるものを、知らないうちに。
まあ冷蔵庫の中やら、トイレットペーパーの収納やらいろいろ見せちゃっているわけだから、そういうこともあるのかもしれない。
あやまんないでよ。ヒモっぽくないよ。そう言うとやっと笑ってくれて、俺サエコさんにぶら下がりたいつもりではないんですよ、と言われた。ないのか。
「冷蔵庫に桃ありますけど食べますか、剥きましょうか」
自分でやるからいいよ、と起き上がろうとすると、ぱっと両手の手のひらを見せられ『寝てなさい』のポーズでなだめられた。本当に一瞬だけだけど抱きしめられるかと思った自分の図々しさ、笑える。
「ねーえー。その桃どうしたの。買ったの」
立ち働く後ろ姿に向かって話しかける。
—— 知り合いがくれたんですさっき。持ってきなーって。あっそうだ、ヒモっぽいこと言いますよ。俺ほしい物があります。
「なに? 10万までなら明日買う。それ以上だったら仕事戻ってから買うー」
—— 引くほど簡単にお金出さないでください。や、桃くれた人が朝顔の鉢をひとつ持ってけって言ってくれて。むらさき一色と、青と白のシボリ? って言ったかな、それがあるらしいんですけど、どっちにしてもサエコさんにきいてからにしようと思って。けっこう大きかったんで、好きじゃなければ邪魔でしょうし。
「はっはーあれか、たしなみか、ヒモがいなくなって植物だけ残ったら女がかわいそうだから、っつうやつだ」
—— なんか今日サエコさん最初に会った時みたいですよね。寝起きなのに酔ってるみたい。かわいいですけど。
「前からこんなもんだし。前からかわいいし。アサガオいいじゃん、ベランダに置こう。その人にお礼しないとね」
桃はガラスのボウルに入って出てきた。
「アサガオって種とれますよね。そしたら来年も咲かせられますかね」
「おっいいのかい、ヒモがそんな未来の話なんかして」
両手を出して『起こして』のポーズで私は言った。ケイゴはおとなしく抱き起こす。
「それなんですけど。俺ここにいてもいいんでしょうか、そしてヒモになるしかないんでしょうか」
「違うものになりたいってんなら相談に乗りますけど、なんになりたいの?……留守を預かる人?」
本当なら身体を離すタイミングで、でもどちらからともなくそうしなかった。抱き合った姿勢のままで彼は私の言葉になにか考えているようで、そして小さな声がした。
「なれるかなあ」
外に出るときにはしまっておくもの、大切なもの、どこかよそで足蹴にされても、もともとの場所で傷つかずずっとそこにあってほしいもの。扉の向こうにそういうものがあるのは、なにも私だけじゃない。それを預かれる人ってどんな人だろうね。
目を閉じると、ほの甘い桃と香ばしい麦茶と、まだ嗅ぎ慣れていない首筋の匂いがした。そっと腕に力を入れながら浅く吸い込む。夏の匂いだった。