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あの日 |
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「こんなときに何かあったら、どうなるのかな」
隣で俯せになっているお客が訊いてきた。
「何かって?奥さんから連絡とか急な不幸?」
「いやそれも困るけど……地震とか火事とか」
ああ、風俗街やラブホ街で火事があったりすると気になるアレか。
アレ、としか言いようがない。
空に浮かんでいる暗雲のように、彼方に見えてるけど見えてないフリをしようとしてる、でも確実に存在しているアレ。私たち――そしてお客たちも――が怖いのは、地震や火事だけじゃない。「被害に遭って身バレする」ことも怖い。
身バレのリスクは、派遣型と店舗型では違う。ラブホテルでお客と死ぬのも最悪だけど、「不倫だった」「火遊びだった」「ワリキリだった」という言い訳はできなくもない。でも店内でなら、「風俗嬢だった」ことを隠すことはできない。財布の中には何らかの身分証明書があり、従業員名簿と突き合せれば全部わかってしまう。だから、その書類が悪意ある誰かの目に留まるのはとても怖い。私が生きていようといまいと。
「家を飛び出して来ても身一つで働けるのが風俗店」
そんなイメージがあるのは知ってる。それはウソじゃないけど、条件付きだ。
成人していて公的な写真付き身分証明書があれば、その日から働くことは可能な店は多い。でも、未成年(業種にもよるけど18歳未満)だったり身分証明書が無い場合、働ける店はゼロではないけど、合法店で働くことは無理。運転免許証、パスポート、写真付住基ネットカード等で年齢を証明できない限り、性風俗店で働くことはできないのです。昔、といっても20年くらい前までは高校や中学の卒業アルバムでもOKな店も少なくなかったのですが。今は入店後に住民票を提出することを義務付けている店も少ないくらいです。
そこまでしっかりと身分を証明してしまったら、もう誤魔化せない。
だからこそ、個人情報管理のきちんとした店で働きたい。風俗嬢個人が「風俗は恥ずかしい卑しい仕事」と思っているかどうか関係なく、世間の目は風俗嬢に冷たいのですから。だからせめて、内勤スタッフのことは信頼したいのです。「イザとなったら守ってくれる人たちだ」と。
盗撮や強姦、暴力といった場合だけでなく、もっと大事が起きたときのためにも。
「ショーコちゃんも、ヤバいことあった?」
「うーん、どうだっけなあ」
「覚えてないの?」
「うん、だからそんな怖いことなかったんだと思うよ」
ウソウソ。もちろんウソ。
でも、七年前もデリヘル嬢だったなんて言ったら、お店のプロフィールと合わなくなっちゃう。
あの地震の日も出勤していた。
プレイ後に洗面所で髪をセットしていたら、世界がぐらりと揺れた気がして洗面台に手をついた。眩暈?立ちくらみ?ちがう。「地震!?この状況ヤバくない?」
ベッドに座っていたお客と顔を見合わせた。
「ここにいるの、マズいよね」
「お金持った?とにかく出よう」
どうにかこうにかラブホから逃げ出し、お客と別れ、路上で私は途方にくれた。どうしよう。
事務所だって山手線で二駅先だ。駅は閉鎖されてるし、バスは満員だし、携帯はつながらない。とりあえずラブホ街を抜けようと歩き始めたところで声をかけられた。
こんなときに、こんなところで、源氏名で呼びかけてくるのは誰?
「ショーコちゃん!」同じ店のナナミさんだった。青ざめた顔をしている。きっと私もそうなんだろう。
それは口紅が取れたままだからじゃない。
「ナナミさんもお仕事中でした?」
「うん、すぐそこにいたの。超怖かった。ベッドに寝てても揺れてるのがわかるのに、お客が盛り上がってて全然気づかなくてさ」
「お客と死ぬとか最悪ですよね」
「お客突き飛ばしてパンツ履いて服着て飛び出してきたよ。だから髪も化粧もよれよれ」
たしかに、いつも綺麗に巻かれている髪に寝癖がついてる。
「私も巻いてる最中だったからひどいもんです」
「ほんとだ。左側だけくるんとしてるじゃん」
「で、どうしましょう」
「まあ、事務所帰るしかないよね」
「あのビル、無事なんでしょうか」
「どうなんだろ。私は子供の学校と連絡つかなくて焦ってる」
携帯を弄るナナミさんの指が震えていた。
「きっと大丈夫ですよ」
ものすごく適当な気休めだ。そうであって欲しいという願望をぽろりと口にしただけで、何の役にも立たない。
「子供に言えないことしてる時間があるのがしんどいんだよね」
「ですよね」
なんと言ったらいいのかわからなくなって、私はナナミさんの手を握った。ナナミさんも握り返してきた。上品なベージュの手袋ごしに、かすかに体温が伝わってきた。自分以外の人間の体温を感じて不愉快でないのは久しぶりだ。
「寒いね」
「冷えますね」
「怖かったね」
「あれはヤバかったです」
そんな無難なことを話しながら、私たちは二駅分歩いた。電車が止まったせいで奇妙に静かな道を歩きながら、ずっと手を握り合っていた。事務所の入ってるビルの前に着いたとき、私たちの手はそっと離れた。
事務所の中はびっくりするほど暖かった。
「お疲れさまです!大丈夫ですか?飲み物ありますよ!中華まんも買ってきました!」
若いスタッフが明るい声で言った。
「ありがとう、とりあえずタバコ」
安心して涙が出る、そんなのはドラマの中の話だと思っていた。けれど、いまタバコを吸いながら出てきた涙は煙のせいじゃない。一人きりの自宅に帰るより、ここにいる方がまだ安心だ。
……って、どうやって帰るの?
「横浜方面帰る人いますかー?」
ベテランスタッフが声をかけてきた。
「ちょっと混んでますけど、スタッフの車で送りますよ」
はあい、とナナミさんが声をあげた。換気扇の下でタバコを吸う私にちょっと手を振って、ベージュのコートを羽織った姿が消えていった。
「ショーコちゃんどうするの?」店長が訊いてきた。
「私、歩いて帰れると思うんで」
「そう、気をつけてね。家に着いたら連絡入れて。ずっといるから」
あの日、店長たちは真夜中まで事務所にいたという。女性たちを送った車が還ってくるのと、女性たちが帰宅したのを確認するために。店長にだって、奥さんも子供もいるのに。
その店長が辞め、スタッフも入れ替わった頃、私もその店を辞めた。
そして今の店にたどり着いた。この店のスタッフも、イザというときに頼りになるといいんだけど。
「ショーコちゃん、寝ちゃった?」
「ううん、ちょっとぼんやりしちゃって。ごめんね」
そろそろ時間だから、と言って客をバスルームに行かせる。あと20分。そろそろコールが鳴るだろう。
大きな地震に遭った話、勤めてた店が火事になった話、摘発に遭った話、いろんな話を聞きました。でも、語ることができるのは、生き残った――それは運としかいいようがない――嬢とスタッフたちだけなのです。
本番や店外デードといった過剰サービスを要求するお客たちは、しばしば「オレを信じてよ」と言います。どこかで習ってきたの?というくらいに口を揃えて。でも、何かあったとき自分を守ってくれるであろう店を、スタッフを裏切らせようとする輩の何を信じろというのでしょう。働いている者同士に最低限の信頼関係がなければ仕事がうまくいかないのは、セックスワークであってもなくても同じです。自分が稼ぎ、店を稼がせる、それをスムースに進めるためにも、店からの信頼を失くすわけにはいかないのです。だって在籍している限りはそれが保険なのですから。
でも、正直なことを言えば、もっと安心して働きたい。それは店舗型でも派遣型でも。風俗店やラブホテル、どちらも風営法の関係で改築は容易ではありません。ボロボロの内装では気持ちが盛り上がらない、とかいう話ではなく。火事や地震に遭遇したら逃げられないのではないか、そもそも崩壊するんじゃないか、という気持ちになるような建物に入るのは、やっぱり怖い。火の回りも早そうだしね、なんて考えたくないのです。
ああ、そんなことを考えてるとマジメな顔になっちゃう。気持ちを切り替え、鏡を覗いて「気持ちのいいエッチをしたあとの顔」をつくってからお客の待つバスルームに入る。これもまたサービスの一環。
「ごめんね、おまたせ」
性風俗従事者、いわゆるセックスワーカー(SW)は、接客する嬢だけではありません。店長や電話番といった内勤スタッフ、ドライバーといった関係者皆がSWです。2018年、すべてのSWが安全に健康的に稼げますように。病気や怪我、事故に遭うことなく良客様に恵まれますように。
ご武運をお祈りいたします。